藤原京(ふじわらきょう)(せき)の「九九(くく)木簡(もっかん)」は最古(さいこ)(きゅう)の「九九(くく)一覧(いちらん)(ひょう)」だった? 奈良(なら)文化財(ぶんかざい)研究所(けんきゅうじょ)最新(さいしん)技術(ぎじゅつ)解明(かいめい)

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出土(しゅつど)した九九(くく)木簡(もっかん)(みぎ))と九九(くく)木簡(もっかん)赤外線(せきがいせん)写真(しゃしん)奈良(なら)文化財(ぶんかざい)研究所(けんきゅうじょ)提供(ていきょう)

 橿原市(かしはらし)藤原京(ふじわらきょう)(せき)(694~710)から2001出土(しゅつど)した、かけ(ざん)の「九九(くく)」が()かれた木簡(もっかん)について、奈良(なら)文化財(ぶんかざい)研究所(けんきゅうじょ)()文研(ぶんけん))が最新(さいしん)赤外線(せきがいせん)観察(かんさつ)装置(そうち)再度(さいど)()()った結果(けっか)九九(くく)一覧(いちらん)(ひょう)可能性(かのうせい)(たか)いことが()かりました。当時(とうじ)役人(やくにん)計算(けいさん)をする(とき)早見(はやみ)(ひょう)として使(つか)ったと推定(すいてい)され、実務(じつむ)(よう)九九(くく)木簡(もっかん)としてはこれまで()つかった(なか)最古(さいこ)(きゅう)とみられます。

九九(くく)木簡(もっかん)復元(ふくげん)(あん)太字(ふとじ)残存(ざんそん)部分(ぶぶん))=「()文研(ぶんけん)紀要(きよう)2024」掲載(けいさい)()から作製(さくせい)

 09()文研(ぶんけん)がまとめた報告(ほうこく)では、1(だん)()右端(みぎはし)を「九々(くく)八十一(はちじゅういち)(9×9=81)」、2(だん)()右端(みぎはし)を「四四(しし)十六(じゅうろく)(4×4=16)」と()()っていたため「(なら)(かた)規則性(きそくせい)がなく、役人(やくにん)九九(くく)(おぼ)えるために使(つか)った木簡(もっかん)」とされていました。

 しかし今回(こんかい)()文研(ぶんけん)桑田(くわた)(くに)()主任(しゅにん)研究(けんきゅう)(いん)最新(さいしん)技術(ぎじゅつ)使(つか)って撮影(さつえい)(さい)検討(けんとう)したところ、2(だん)()右端(みぎはし)は「四九 (しく)卅六(さんじゅうろく)(4×9=36)」の可能性(かのうせい)(たか)く、(なら)(かた)規則性(きそくせい)()てきました。

 当時(とうじ)九九(くく)現在(げんざい)とは(ちが)い、「九々(くく)八十一(はちじゅういち)(9×9=81)」から(はじ)まり、「八九(はっく) 七十二(しちじゅうに)(8×9=72)」「七九(しちく) 六十三(ろくじゅうさん)(7×9=63)」と(つづ)いていました。九九(くく)木簡(もっかん)(なが)さ16.2センチ、(はば)12ミリしか(のこ)っていませんが、これは当時(とうじ)九九(くく)(みぎ)から(ひだり)に5(ぎょう)ずつ段組(だんぐ)みした右上(みぎうえ)(すみ)部分(ぶぶん)にあたると(かんが)えられます。

 (おな)(なら)(かた)一覧(いちらん)(ひょう)中国(ちゅうごく)(しん)(かん)時代(じだい)紀元(きげん)(ぜん)世紀(せいき)紀元(きげん)()世紀(せいき))に(おお)()られ、日本(にほん)では平城京(へいじょうきょう)(せき)(8世紀(せいき))をはじめ(やく)10(てん)出土(しゅつど)(れい)があるそうです。桑田(くわた)主任(しゅにん)研究(けんきゅう)(いん)は「日本(にほん)でも(しん)(かん)時代(じだい)書式(しょしき)(ちか)一覧(いちらん)(ひょう)があったのだろう。(役人(やくにん)かけ(ざん)をする場面(ばめん)は)出勤(しゅっきん)日数(にっすう)管理(かんり)(ぜい)(あつ)める(とき)などが(かんが)えられるが、今回(こんかい)研究成果(けんきゅうせいか)具体的(ぐたいてき)九九(くく)がどのように使(つか)われていたかを()るきっかけになれば()い」と(はな)しました。

取材(しゅざい)岡崎(おかざき)雅樹(まさき)記者(きしゃ)、2024951社会面

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